ブロッホ-バウアー・コレクションのクリムト

13時頃ようやく外出できるようになる。タクシーに乗ってロスアンジェルス郡美術館(LACMA)へ行く。目的は、ブロッホ-バウアー・コレクションのクリムトだ。ロスアンジェルスへの出張が決まったとき、真っ先にここへ来ると決めていたのである。LACMAはいくつかの大きな建物のコンプレックスになっているが、そのうちのアーマンソン・ビルディングでクリムトの特別展を開催していた。LACMA入館料の$9だけで特別展も観覧できる。

大きな展示室の3面に「林檎の木I」(1912)、「アデーレ・ブロッホ-バウアーII」(1912)、「アデーレ・ブロッホ-バウアーI」(1907)、「アッター湖畔ウンターラッハの家並み」(1916)、「楡の森」(1903)の5点が展示してある。圧巻は何と言っても、正面の壁に単独で展示してある「アデーレI」だ。黄金様式の大作で、豪奢の一言に尽きる。クリムトの代表作の一つだ。同じモデルの「アデーレII」は、淡白な中にもクリムトらしい粘着感がある。クリムト肖像画を二度描いたのは、アデーレひとりだったという。並べて展示してある「林檎の木I」は、「アデーレII」と同時期の作品なので、画風も共通するものがある。反対側の壁の「アッター湖畔」は、5点の中ではやや感銘が薄いが、アッター湖はマーラークリムト所縁の地だ。妻とヨーロッパを旅行した際に、地方鉄道を乗り継いでアッター湖まで出掛けて行ったときの記憶が蘇った。最も初期の「楡の森」は、精密な点描画で、ひんやりとした森の冷気が伝わってくるような絵だ。

解説によると、モデルのアデーレ・ブロッホ-バウアーの遺言には、「クリムト絵画6点は、夫のフェルディナントに遺贈する。夫の死後は、オーストリア・ギャラリーに展示すること。」とあったという。1925年に彼女が髄膜炎のため43歳の若さで亡くなり、フェルディナントがクリムト絵画を相続する。しかし、1938年にオーストリアがドイツに併合されると、ユダヤ人であったフェルディナントは、スイスへ亡命。後に残されたクリムト絵画は、ナチスが押収し、3点がオーストリア・ギャラリーに収蔵され、残る3点が売却された。戦後、売却は無効とされ、6点ともオーストリア・ギャラリーに収蔵されることになった。フェルディナントは、1945年に亡命先で亡くなる前に「クリムト絵画は、ナチスに協力したオーストリアではなく、姪のマリア・アルトマンに遺贈する。」旨の遺言を残した。この遺言に基づき、マリアは1999年にオーストリア政府を相手取って米国で訴訟を提起し*1、最終的にはオーストリア政府との仲裁の結果、2006年1月に、6点中5点について、相続人の所有権を認める裁定が出された。残りの1点についても近く裁定が出されるという。今回、これら5点がLACMAでの特別展に出展されることとなった。

アデーレの遺言に照らすと、今回の仲裁裁定が妥当なのかどうかは、よくわからない。彼女は、自分の肖像画がヴィーンの人々に鑑賞されることを望んでいたはずだ。オーストリア・ギャラリーが適正な対価で5点とも買い戻すことが、相続人の利益にも故人の遺志にも適うのではないか。5点が方々の美術館に散逸したり、個人が退蔵したりしないことを祈りたい。これら5点をまとめて鑑賞できる機会は当面限られそうなので、この時期にロスアンジェルスに出張できたのは幸いであった。
http://d.hatena.ne.jp/Wilm/20060619

*1:彼女の訴訟代理人のランドール・ショーンバーグは、作曲家アルノルト・シェーンベルクの子孫ということだ。因縁を感じる話だ。