「絵本太功記」第2部

第2部は、1等席なので、3列ほど前に進出した。

六月七日「杉の森の段」
中が文字久大夫と宗助、切が人間国宝・住大夫と錦糸。話は変わって、春長と対立する雑賀衆の重成(玉輝)・孫市(紋豊)の親子が主人公になる。重成に勘当された孫市が久吉との和睦を成立させるため、切腹し、年端もいかない娘・松代(勘市)と息子・重若丸(和右)に首を切らせる。強いられた介錯とは言え、親殺しである。このあたりの必然性はよくわからない。最後には、久吉との和睦が成立し、匿っていた足利の末裔・慶覚君(玉英)が京へ出立するのを祝い、重若丸が舞う。ますますわからない。この段は、つい、うとうとして、長女に突付き起こされた。

六月九日「瓜献上の段」
1966年に五世燕三作曲で復活された段である。英大夫と清友の浄瑠璃。「義経千本桜」にも登場した大物浦が舞台だ。百姓長兵衛に身をやつした田島頭が、正清軍の攻撃に乗じて久吉の命を狙う。しかし、久吉に見破られ、大立ち回りの末、討ち取られる。玉也が光秀腹心の部下の壮烈な最期を堂々と遣った。玉也にはもっと活躍してもらいたいと思う。

六月十日「夕顔棚の段」
いよいよ「大十」である。端場ながら、津駒大夫と人間国宝・寛治の浄瑠璃。人形の文雀、簑助と併せ、舞台上に人間国宝が3人居並ぶという豪華さだ。戦死を覚悟の十次郎が祖母・さつきのもとに暇乞いに来る。さつきは、孫の覚悟を感じ取り、初菊と祝言を挙げてから出陣せよと言う。

同「尼ヶ崎の段」
切は、嶋大夫・清介、十九大夫・富助と、現在最も充実した切語りのコンビだ。嶋大夫の重々しい語り出しから、雰囲気ががらっと変わる。まるで、マーラー交響曲大地の歌」の終楽章冒頭のようだ。十次郎と初菊が固めの盃を交わす。目出度い祝言のはずなのに、誰しも十次郎の死を予感しているので、愁嘆場となる。

後半の十九大夫・富助は、さらに凄味のある浄瑠璃を聴かせる。十九大夫の重厚な語り、富助の弦を切らんばかりの強靭な撥弦。「月漏る片庇」で光秀登場。風呂場の人影を久吉と誤認して、引っそぎ竹で母・さつきを刺してしまう。さつきの「逆賊非道。」の罵りに、光秀は「(春長を)討ち取つたるはわが器量。」と応酬する。そこへ重傷の十次郎が正清軍に追われ、敗走してくる。清之助が十次郎の最期を哀切に演じる。息子の死に、さすがの光秀も慟哭する。しかし、近づく人馬の音に、松の木に攀じ登り、敵軍に包囲されたことを知る。ここで久吉登場。さつきは、久吉に「武智が母は逆磔に、掛かつて無惨の死を遂げしと、末世の記録に残して給べ。それもやつぱり倅めが、可愛さ故の罪亡ぼし。」と真情を吐露して絶命する。光秀と久吉は、山崎での決戦を誓う。劇的な展開に息もつけない。

大詰「大徳寺焼香の段」
初演から38年後の1837年に増補された段である。浄瑠璃は、再び掛合いになる。春長法要の場での焼香の順番を巡る跡目争いである。久吉が春長の孫・三法師丸(紋吉)の威光と、正清・正則の武力を背景に、諸侯に先駆けて焼香してしまう。策略家としての久吉を印象づけて、幕となる。「大十」の後では、いささか聴き劣りがするのは否めないが、「絵本太功(閤)記」の終幕に相応しいとも言える。

見応えのある公演だった。現在の文楽界の総力が結集していたと言っていいだろう。玉男亡き後とは言え、4人の人間国宝はなお健在。十九大夫、嶋大夫、綱大夫ら切語りの充実は頼もしい。錦糸、清治、富助らの三味線も大夫をしっかり支えている。人形遣いでは、幸助と清之助の成長が確認できたのが収穫だった。

床本を読んだときには、光秀、久吉いずれが主人公なのか、と思ったが、やはり光秀が主人公だ。さつきは、光秀を逆賊非道と決め付けるが、実は、自分が非を負って死ぬ覚悟ゆえであったことが明らかになる。忠義か正義か、という選択に対する作者の答えは明らかだ。表向き、久吉の偉業を讃えているのは、封建時代ゆえの、作者の本意のカモフラージュだろう。

勘十郎は、光秀の内面の葛藤を重視した解釈で遣っていたように思う。この役は、玉男、その前は先代の勘十郎が得意としていたので、玉女、勘十郎いずれも遣う資格があると言える。次は、玉女の豪放な光秀を観てみたいものだ。