丸木美術館「原爆の図」

自宅で車に乗り、調布ICから中央道に乗ります。八王子JCT圏央道に乗り換え、鶴ヶ島JCTで関越道に乗り、東松山ICで降りました。西に数km進んだ田園地帯の中に丸木美術館がありました。丸木位里・俊夫妻が描いた「原爆の図」全15部(1950-1982)のうち、長崎原爆資料館に収蔵されている第15部「長崎」(1982)を除く14部が展示されている美術館です。今日は、広島原爆忌なので、入場無料になっていましたが、正規の入場料相当額を寄付しました。

写実の地獄絵
さっそく2階の展示室に上がってみます。ここには、第1〜8部の「原爆の図」が展示されていました。いずれも一双六曲の屏風絵です。原子野を彷徨う被爆者の姿を描く第1部「幽霊」(1950)、火焔で人が焼かれる様を描く第2部「火」(1950)、水辺の死屍累々を描く第3部「水」(1950)、原子雲が降らせた雨によってできた虹を描く第4部「虹」(1951)、子供の犠牲者を描く第5部「少年少女」(1951)、竹薮に避難した被爆者を描く第7部「竹やぶ」(1954)、そしてようやく始まった救難活動を描く第8部「救出」(1954)の7双が展示されていました*1

子供の頃、「救出」の複製画を見て衝撃を受けたときのことを思い出しました。これらの絵は、古今東西の画家が描いたあらゆる地獄図よりも凄惨で、正視に堪えないほどです。しかも、さらに恐ろしいのは、これらが画家の想像の産物ではなく、写実だということです。「少年少女」の中で、俯いて抱き合う姉妹に娘たちの姿が重なり、涙が出そうになりました。原爆投下は、人が人に対してできることではありません。原爆投下を意思決定し、実行に関与した米国の政治家・軍人たちは鬼畜にも劣ると言うべきでしょう。

異議もあり
1階は、残りの第9〜14部が展示されています。第五福龍丸が亡霊のように海に浮かぶ第9部「焼津」(1955)、平和署名活動を描く第10部「署名」(1955)、子を救う母の姿を描く第11部「母子像」(1959)、原爆の犠牲となった米軍捕虜を描く第13部「米兵捕虜の死」(1971)、そして韓国人・朝鮮人被爆者を描いた第14部「からす」(1972)の5双です*2

写実的な2階の作品に比べると、画家の意思(さらには政治的意図)を反映した演出が見られるようになり、素直に感動できませんでした。特に、「米兵捕虜の死」の解説の中で、捕虜として広島に収容されていた被撃墜B29爆撃機の搭乗員23名が被爆死する前に虐殺されていたという趣旨のことが書かれていますが、事実に反すると思います。日本側で確認されているのは、広島城内にあった中国憲兵隊司令部等に収容されていた13名の米軍捕虜*3のうち、11名が8月6日に被爆死し*4、2名が8月19日に原爆病死しているということです。このあたりの事実関係は、東京に護送されたために被爆を免れた「ロンサム・レディ」機長トーマス・カートライトの回顧録を読んで調べることにします。
爆撃機ロンサムレディー号―被爆死したアメリカ兵

そのほかにも、「南京大虐殺の図」(1975)、「アウシュビッツの図」(1977)、「水俣の図」(1980)、「水俣原発三里塚」(1981)の大作も展示されていましたが、「南京大虐殺の図」などは、私とは歴史観を異にする絵で、感心しませんでした。

美術館の庭には、裏の都幾川に流す灯篭が並べられていました。ちょっと複雑な心境で美術館を後にします。私は、丸木夫妻の政治的立場に共感するものではありませんが、「原爆の図」第1〜8部は、原爆の惨禍を後世に伝える貴重な芸術作品だと考えます。

*1:第6部「原子野」(1952)は、松本市・神宮寺に貸し出されており、不在でした。

*2:第12部「とうろう流し」(1969)は、松本市・神宮寺に貸し出されており、不在でした。

*3:米国陸軍B24爆撃機44-40716号機「タロア」搭乗員2名、同44-40743号機「ロンサム・レディ」搭乗員6名、米国海軍航空母艦「ワスプ」艦載機SB2Cの搭乗員2名、同「ランドルフ」艦載機F6Fの搭乗員1名。

*4:捕虜が収容されていた中国憲兵隊司令部は、爆心地から約800mの距離に位置し、壊滅的な打撃を受けています。