梅田橋の女夫星

昨日観た「曽根崎心中」の「天神森の段」で、お初と徳兵衛が梅田橋を渡る場面の背景に星が3つ輝いていた。原作や床本には、「女夫星」(みょうとぼし)とあるが、お初と徳兵衛が見上げたこれらの星は何だったのだろうか。

まず、日時を特定しなければならない。お初と徳兵衛が大坂・露天神社境内で心中したのは、元禄13年4月7日未明。劇中では、明け七つの鐘が鳴る。これらを新暦に当てはめると、1703年5月23日4時頃になる。

方角はどうか。劇中、お初と徳兵衛は、堂島新地の天満屋から梅田橋を渡って露天神社に向かった*1。堂島新地は蜆川の南だから、彼らは、梅田橋を南方から北方に渡ったことになる。古地図*2を見ると、梅田橋は、南東から北西に向けて架かっているので、3つの星が見える方角は、ちょうど西になる。

これらの情報をもとに、プラネタリウム機能のあるWebサイトで大阪の1703年5月23日4時頃の西天を表示させる。すると、当時の西天高く、アルタイル(わし座)、ヴェガ(こと座)、デネブ(はくちょう座)の3つの1等星が輝いていたことがわかる。しかも、これらのうち、アルタイルとヴェガは七夕の夫婦星だ。原作の「われとそなたは女夫星」というのは、単なる比喩ではなかったのである。お初と徳兵衛の道行を浄瑠璃にしようと発意したとき、近松は、明け方の梅田橋へ行って実地検分をしたに違いない。

ついでに、原作にある「北斗は冴えて影映る」はどうか。北斗七星は実際に見えていたのか。二人が梅田橋から眺めたのは、北東の方角になるので、同じ場所・時刻の北東天を表示させると、西寄りの地平近くに北斗七星が出ている。近松も、梅田橋から地平に沈みつつある北斗七星を眺めたのだろう。わずか19歳と25歳の短い生涯を閉じた二人に想いを致すとき、近松の胸中に「此の世の名残。夜も名残。死にゝ行く身を譬ふれば。あだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。」という詞が去来したのだろう。

*1:蜆川には梅田橋の上流に緑橋、櫻橋、曽根崎橋、堂島橋が架かっているので、実際にお初と徳兵衛がいずれの橋を渡ったのかは不明である。しかし、心中の道行の二人が蔵屋敷の並ぶ堂島新地の蜆川南岸を歩いていったとは考えにくい。天満屋は梅田橋のほとりにあったので、すぐに対岸の曽根崎に渡り、人気のない蜆川北岸を死出の道に選んだと近松は推測したのだろう。

*2:1月に国立文楽劇場でもらった「冥土の飛脚」の解説地図。原図は清文堂出版「増修改正摂州大坂地図」文化3年(1806年)彫成。