鹿屋航空基地史料館

鹿児島で最後の目的地は、海上自衛隊鹿屋航空基地に隣接する史料館である。基地の正門の前を左に曲がり、駐車場に車を停める。「鹿屋航空基地史料館」と刻まれた石碑の後ろには、屋外展示されているHSS-2A対潜哨戒ヘリコプター(8074号機)が鎮座している(写真)。そのほかにも、日本が誇る大型救難飛行艇US-1A(9076号機)を始めとして、P-2J/V哨戒機(4771・4783・4618号機)、V-107掃海ヘリコプター(8608号機)、R4D-6輸送機(9023号機)*1など、海上自衛隊で運用されていた航空機が屋外展示されている。

館内に入る。1945年4月1日から6月22日までの83日間に、ここ鹿屋航空基地から沖縄に向けて帝国海軍を中心とした908名の特攻隊員が出撃し、還らぬ人となった*2。2階には、夥しい数の遺影と遺書・遺品が展示されている。鹿児島の二つの半島に、方や陸軍(知覧)、方や海軍(鹿屋)の特攻基地があり、そこから敗戦直前の半年間に併せて約2,000名の若者が出撃し、戦死したことに改めて厳粛な気持ちになる。

2階には、零式艦上戦闘機52型の実機が展示してある。1992年3月24日に垂水市まさかり海岸(鹿屋港のすぐ北である)から引揚げられた21型と、同年8月3日に加世田市吹上浜から引揚げられた52丙型の残骸を鹿屋航空基地で合成・復元したものということだ。靖國神社遊就館の52型と同様、零戦の製作元である三菱重工株式会社名古屋航空宇宙システム製作所が技術支援を行っただけあって、ロールアウトしたばかりのような美しさである。左翼後部に階段が設けられているので、操縦席を覗くことができる。九八式一型射撃照準器がきちんと再現されているのが見える。

零戦の近くに解説員のK氏がいらしたので、お話を伺う。帝国海軍百里ケ原航空隊で訓練を受けた後、零戦の搭乗員となり、20歳で敗戦を迎えたという。今年81歳には見えないお若さだ。もう少し戦争が続いていれば、ご自身も特攻出撃することになったという。零戦の操縦について、手振りを交えて説明してくださる。「ひねり旋回の途上から20mm機銃を連射するとき、零戦は無敵の強さでした。」と語るとき、氏の眼は、遥か61年前の戦場の空を見晴るかしているようだった。

見学を終え、館外に出ると、雷鳴が聞こえ、北の空が暗い。妻子を車に行かせ、私は、道路を挟んだ向かい側に屋外展示されている二式大型飛行艇12型(T-31号機)を見に行く。この機体は、かつて、お台場の「船の科学館」に屋外展示されていたが、2003年12月に防衛庁に譲渡され、2004年5月からここで屋外展示されている。2004年2月に移転準備作業中の姿を見て以来、2年半ぶりの再会である。「船の科学館」と違って、周囲を回って写真を撮ることができる。改めて機体の巨大さを実感する。この数少ない帝国海軍機の生き残りが東京で見られなくなったのは寂しいが、特攻機の先導機として、また自ら特攻機として出撃していった鹿屋の地で永く翼を休めるのがいいだろう。

車に乗ると雨が降り出した。最後に、小塚公園にある「特攻隊戦没者慰霊塔」へ行く。雨脚が強くなってきたので、近くの駐車場に車を停め、妻子を残して一人で行く。石段の上に、「慰霊」の銘文が入り、羽を広げる鳩の像を乗せた白い塔が建っていた。慰霊塔の脇には、「旧鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者九〇八名」と題し、戦没者908名の出撃年月日、所属部隊、階級、氏名が記された銅板が掲げられていた。慰霊塔に合掌する。折りしも、「もう帰れ。」とばかり、近傍に落雷し始めたので、あわてて車に戻る。これで鹿児島で見るべきところは、すべて回った。

*1:日本に現存する唯一のダグラスDC-3型飛行機。

*2:日本の無条件降伏後、私兵特攻を行った宇垣纏中将は、第五航空艦隊司令長官として、鹿屋で「特別攻撃」の指揮を執っていた。ただし、彼が出撃したのは大分海軍飛行場からである。