トゥーランドット

今日は、藤沢に「トゥーランドット」を観に行く。かわいそうに、娘たちは今日も留守番だ(ふたりで「ハウルの動く城」を観ていたらしい)。小田急で藤沢まで行く。藤沢市民オペラは、1998年11月に今日と同じく若杉弘の指揮で「リエンツィ」を観て以来、2回目だ。

今日の公演は、ルチアーノ・ベリオが第3幕を補筆した版の日本初演である。一般に採用されているアルファーノ版との違いが興味の対象だ。実際に聴いてみると、手放しには賞賛しかねる。何と言っても、プッチーニの音楽と違いすぎる。アルファーノ版はプッチーニの音楽との様式の違いが酷評されるが、その点ではベリオ版も負けていない。現代音楽風の表現が続き、ページをめくったように音世界が変わってしまう。*1また、リューの自己犠牲に最大限配慮し、静かな幕切れとしているが、しょせん、彼女の屍を乗り越えてトゥーランドットとカラフが結ばれるという筋書きは変えようもない。今後、この版が普及するとは考えにくいだろう。最良の解決は、初演時にトスカニーニが行ったように、リューの自刃の場面で幕切れとすることではないか(トゥーランドットとの結婚をあせるカラフや死の恐怖に怯える北京市民には気の毒だが)。

歌唱陣は、期待通り、カラフの福井敬がすばらしい。去年2月の「エジプトのヘレナ」以来、久しぶりに聴くが、声の輝かしさが一層増し、今や押しも押されもせぬ大テノールだ。*2リューの和泉純子も力唱し、「氷のような姫君の心も」は哀切極まりなかった。これら主従二人に比べて、タイトルロールの片岡啓子は、お姫様というよりは、皇太后のような貫禄はさておき、声が広がらず冴えなかった。

マチュア管弦楽と合唱は、若杉弘の指揮のもと、力演だった。「リエンツィ」のときもそうだったが、このような群集劇は、市民オペラにふさわしい。

栗山昌良の演出は、いたってオーソドックスなもの。大仕掛けな舞台装置と絢爛豪華な衣装は、この曲に対するイメージを満足させてくれる。1999年4月にオーチャードホールで観た「トゥーランドット」は、演出(勅使河原三郎)が酷かったという記憶しか残っていないが、今日の公演は、いい記憶となって残ることだろう。

これで今年のオペラは終わりである。回数は3回だったが、7月の公演が二本立てだったので、全部で4作と平年並みだった。本当は、バイエルン州立歌劇場の「タンホイザー」や東京シティフィルの「パルジファル」を観たかったのだが、いずれも休日のチケットが入手できず、断念したのが心残りだ(「タンホイザー」は入手できたらできたで、途方もない金がかかったのだが)。

*1:その点、「ルル」のツェルハ版は、ベルクの音楽との違和感がない。

*2:1997年11月の初台杮落としの「ローエングリン」で初めて聴いて以来、夫婦揃ってファンとなり、ローエングリン、リエンツィ、カラフ、タミーノ、アイゼンシュタイン、ヴァルター、ドン・ホセ、アルヴァ、メネラス、そして今日のカラフと、都合10回聴いている。