コンサート・オペラ「ペレアスとメリザンド」
妻といっしょに初台で「ペレアスとメリザンド」を観てきました。コンサート・オペラと銘打った演奏会形式の上演です。しかし、オーケストラ(東京フィル)はピットの中に入り、歌手は、盆の上に組んだ簡素な舞台装置の上で最小限の演技をします。現代的で抽象的な演出だと思えば、オペラ公演を観た気にもなれるという折衷的な様式でした。音楽史上の意義とは裏腹に、興行的には難しい演目なので、このような方式を採ったのでしょう。
浜田理恵の美しいメリザンド
歌手陣では、メリザンドの浜田理恵が美しい歌唱を聴かせてくれました。表情や演技も謎めいたメリザンドの役柄に合っていました。ゴローの星野淳もしっかりした歌で、嫉妬や苦悩を描いてみせます。アルケル王の大塚博章も深々としたバリトンで舞台を引き締めました。それに対し、ペレアスの近藤政伸は、ゴローよりも年上に見えるという容姿もさることながら、歌唱法がイタリア・オペラのようで、違和感がありました*1。
東京フィルの健闘と若杉の衰え
東京フィルは、精緻な演奏を聴かせてくれました。80名弱の小振りの編成ですが、絶えず変化する音色を丁寧に表現していたと思います。指揮の若杉弘は、ピットが深く降ろされていたので、入退場時はもちろん、指揮中もその姿はまったく見えませんでした*2。カーテンコールで一度だけ舞台裾に登場して答礼していましたが、ギュンター・ヴァントのように背中が曲がり、昨年の「タンホイザー」の公演時に見かけた姿からさらに老け込んでしまっていました。1980年代の初め頃からずっと聴き続けてきた指揮者が衰えていく姿を見るのはつらいものです*3。
水と闇の音楽
これまで、「ペレアスとメリザンド」は、情念が濃厚に渦巻くシェーンベルクの交響詩で慣れ親しんできましたが、このドビュッシーのオペラは、まるで違う音世界でした。音楽的にも物語的にも、ほとんどカタルシスがありません。前奏曲も独立したアリアや重唱もなく、音楽は水の流れのように*4、切れ目なく変転していきます。物語は、日の光を嫌うように、闇や陰の中で展開していきます。そして、メリザンドは誰だったのか、ペレアスとの間に不倫があったのか、メリザンドが産んだ子の父は誰なのか、一切の問いに答えないまま、静かに消え入るように終わってしまいます。このようなオペラは、ほかにないと言っていいでしょう。洗練の極みとも言うべき音楽です。