「皇帝ティトの慈悲」

二期会のオペラ公演「皇帝ティトの慈悲」を観に行くことにする。これまで行くどうか迷って、前売券も買わずにいたのだが、珍しいオペラなので、観ておこうと決心した次第だ。13時頃、妻と二人で出かける。娘たちは留守番だ。以前は留守番を嫌がったのに、今では親がいない方が気楽になったらしい。困ったものである。

今日は、初台の小屋を借り切った公演である。地味な演目なので、A席かB席の当日券が余裕で買えるだろうと思っていたら、S席が10数席残っているだけだった。二期会オペラメンバーの割引もきかず、散財だ。まあ、1階20列20・21番といういい席だったので、よしとしよう。むしろ、開演間際に行っていたら、全席売り切れだっただろう。

チケットを確保してから、東京オペラシティの地下の「HUB」へ行き、ビールを飲みながら、フィッシュ&チップスで腹ごしらえをする。

15時開演。序曲しか聴いたことのない曲だが、楽しめた。何より、ドイツの鬼才ペーター・コンヴィチュニーの演出が卓抜だ。序曲*1から休憩時間*2・カーテンコール*3に至るまで、一貫して管理下に置こうという不敵な演出意図である。歌手のスラプスティックな挙措と道徳劇的な歌詞とモーツァルト最晩年の透明な音楽が不協和音を奏で、眩暈のするようなおかしさを醸し出す。モーツァルトもこのような演出を企図していたのではないか、と思えるほど、壺に嵌っている。

秀逸だったのは、第1幕のセストのアリア「私は行くが君は平和に」と第2幕のヴィッテリアのアリア「花の絆はもはや結ばれない」だ。K.622の協奏曲*4を想起させる美しいクラリネット(第2幕はバス・クラリネット)のオブリガートを舞台上の黒衣の死神に吹かせたのである*5。薄暗い緑色の照明の中、死神が笛を吹く姿は、中世的・中欧的な不気味さが漂っていた。独特の美意識である。

歌手は、何と言っても、セストの小林美智子がすばらしい。オペラ・セリアの様式感を保ちつつ、切々とした歌を聞かせた。演技も優れている*6。将来が楽しみなメッゾだ。皇帝ティトの望月哲也も、俗物の独裁者を演じつつ、晴朗な歌を聞かせる。ヴィッテリアの林正子は、やや逸脱した歌だが、これは彼女の責任ではないだろう。「フィレンツェの悲劇」のビアンカと同様、本来の個性とは違う役柄だ。セルヴィーリアの幸田浩子は、今回初めて聴くが、コケティッシュなキャラクターを好演した。

ユベール・スーダン指揮の東京交響楽団も繊細かつ活き活きとした演奏だった。名前から何人なのだろうと思っていたが、公演プログラムによると、オランダ人だそうだ。この指揮者のモーツァルト演奏は、今後要チェックだ。

満足感を抱きつつ帰途につく。初台駅で楽器を抱えたベアンテ・ボーマンを見かけた。私が大学生の頃から東響の首席チェロ奏者を務めているチェリストだ。

*1:照明事故を装って、わざとやり直しをさせる。

*2:休憩時間のロビーに皇帝ティトが突然登場し、ここから実質的に第2幕が始まっている。

*3:カーテンコールの最中にオーケストラが序曲を演奏するオペラ公演は初めて観た。

*4:このオペラとケッヘル番号が1番違いだ。モーツァルトは、生涯最後の年である1791年に「魔笛」K.620と「皇帝ティトの慈悲」K.621を並行して作曲した後、10月にクラリネット協奏曲K.622を作曲する。モーツァルトが亡くなるのは、その2ケ月足らず後、12月5日のことである。

*5:今日の公演では、NHK交響楽団クラリネット奏者・山根孝司が死神を演じた。

*6:第2幕のアリア「ああ、この時にこそ」で、あらゆる手段を動員して自殺を図るパントマイムは抱腹ものだった。