伊豆半島の旅

7時頃、父からの電話で起こされた。朝日がきれいだと言う。ベランダに出てみると、東の海が朝日に映えてきらきら輝いている。対岸には、房総半島が初島の右横まで伸びているのが見える。今日もいい天気だ。

9時半頃、タクシーを呼んでもらって網代駅に下りる。運転手さんの話によると、このあたりにはイノシシが出るそうだ。冬寒で、山には食べ物がないのだろうか。

網代駅9:48発の普通列車伊豆急下田行き(5635M)に乗る。やって来たのは、伊豆急の2100系のR-1編成*1「黒船電車」だ。パノラマ車になっている先頭車両に乗りこむと、運よく6席空いていた。前方の眺めがよい。南下していくにつれ、先週、平砂浦から遥か沖合いに見えた利島や新島が真横に見えてくる。稲取のあたりでは、波打ち際を走るので、なかなかの眺めだ。かと思えば、稲梓のあたりは冬の山里の風情である。各駅停車とは言え、50kmあまりの距離に何で1時間半もかかるのかと思ったら、単線なので、すれ違い待ちが多いのである。こうしたのんびりした鉄道の旅も悪くない。11:19伊豆急下田到着。

荷物を駅のコインロッカーに預けてから、下田散策に出かける。最初の目的地は、1854年5月に下田条約が締結された了仙寺である。何ということはない寺だが、由来書きによると、1854年3月に神奈川で日米和親条約の締結に成功したペリー艦隊が、開港地として指定された下田に回航し、日米和親条約の細則協定(下田条約*2)をこの地で締結したという。本堂の裏には、横穴式古墳の跡という大きな洞窟があった。

ペリーロードと名づけられた了仙寺の表参道を進む。なまこ壁の古い民家が散在し、歴史を感じさせる街並みだ。海に近い川にボラの大群がいた。私は見損なったが、妻子によると、1羽のカワセミが民家の軒から急降下し、見事ボラをくわえて飛び去ったという。海岸に出ると、ペリー艦隊来航記念碑があった。神奈川から回航してきたUSS「ポーハタン」*3を旗艦とする7隻のペリー艦隊が上陸した地点の近傍ということだ。誇らしげなペリーの胸像の横に、日米交流150周年記念にジョージ・W・ブッシュ米国大統領から贈られた記念碑もあった。

ここで下田観光は終わりである。ご当地ピンズで寝姿山を引き当てた長女は、寝姿山に登りたがったが、時間切れだ。駅の近くまで戻り、海鮮料理屋「魚河岸」で昼食をとる。6人とも海鮮丼を注文した。ネタが新鮮で、やはり、港町に来たら魚介類に限る。

上りの特急の指定席はすべて満席。やむなく、13:40発特急踊り子108号(6028M)の自由席に並ぶ。私が先陣となり、何とか6名分の座席を確保する。喫煙車の山側の席だが、やむを得ない。車輌は185系のB7編成。昔ながらの踊り子号だ。出発前にホームで買ったビールを飲んだら気持ちがよくなって寝てしまった。目が覚めると、もう伊東を出るところだった。忘れ物を取りに網代で下車した両親と別れ、そのまま小田原まで乗っていく。

小田原で下車して、小田急線に乗り換える。運賃案内図に我が家の最寄駅の名前もあり、何だか心強く思った。15:40発の急行新宿行きに乗る。箱根外輪山がよく見える。高校2年の1学期の期末試験が終わった後、同級生とふたりで明神ケ岳から金時山まで炎天下を縦走して酷い目に遭ったことを懐かしく想い出す。新松田の手前で酒匂川を渡る。電車は、酒匂川の支流、川音川沿いに走る。この川の水が海に注ぎ、ビキニ環礁に沈む巡洋艦「酒匂」のところに流れ着くことはあるのだろうか、とふと思う。渋沢を過ぎると、鍋割山から大山に至る丹沢山塊の前衛が聳えてくる。いずれも二等辺三角形の美しい山容だ。まずは、娘たちを大山に連れていこう。16:56登戸到着。南武線に乗り換え、17時過ぎに自宅に到着した。3時間半近い電車の旅であった。

*1:Wikipediaの情報によると、このR-1編成は3月10日で退役するとのことだ。

*2:「下田条約」と呼ばれる条約は、ほかに1855年にロシアとの間で締結された日魯通好条約がある。この条約では、択捉島と得撫島の間が日露国境として確認されており、我が国北方領土の法的根拠の一つとなっている。なお、日魯通好条約が締結された2月7日は「北方領土の日」である。

*3:伊豆急下田駅前にはUSS「サスケハナ」の模型が飾られているが、神奈川来航時の旗艦「サスケハナ」は、日米和親条約締結の直前にマカオに出発してしまい、下田には来ていない。なぜ、下田に来航した艦隊旗艦「ポーハタン」を模型にしなかったのか不思議だ。