広島

広島で朝を迎えた。15階のレストランで朝食を取る。元安川の流れの向こうに原爆ドームがくっきり見える。三方を緑の山々に囲まれ、幾筋も川が流れる広島は美しい街だ。

朝食後チェックアウトし、まず、妻が通っていた県立国泰寺高校へ行く。校門を入ってすぐ左に「旧雑魚場町地区周辺(爆心地から1.1キロメートル)」という原爆被災説明板が立っており、原爆の街であることをさっそく実感する。説明板にある写真には、瓦礫以外何も写っていない。ここで建物疎開作業に従事していた生徒が数多く犠牲になったとあり、実際、校門の右脇には在職・在学中に原爆で亡くなった職員・生徒の慰霊碑があった。

続いて、妻が住んでいた西広島に行く。平和大通りを西進すると、元安川太田川天満川太田川放水路と4本も川を渡る。水の都と言われるわけだ。妻が住んでいた西広島駅近くの国鉄官舎は、大蔵省のアパート群に変わっていた。妻も風の便りには聞いていたようだが、自分が中学から高校にかけて過ごした家が跡形もなくなっているのを目の当たりにするのは気持ちのいいものではないだろう。その後、己斐の山を上っていき、妻が卒業した市立己斐中学校に行く。妻が卒業生であることを名乗ると、宿直の教頭先生が校内見学を許可してくれた。妻は、自分の教室を見つけて喜んでいた。廊下の端の窓から外を見ると、広島市街、瀬戸内海、そして江田島まで一望できた。これで、父に次いで、妻の追憶の旅も成就した。

山を下りて、市街に戻る。新天地の駐車場に車を預けて、広島はお好み焼きという定石通り、「お好み村」へ行く。どの店も混んでいるが、たまたま座れそうだった「文ちゃん」という店にする。予想以上においしくて、ちょっと驚く。

食後、広島平和記念公園の近くの駐車場に車を置き、原爆関連の見学を始める。まず、爆心地へ行く。島外科の脇に原爆被災説明板がある。この上空580mで原爆が炸裂したという説明文に思わず天を仰ぐ。続いて原爆ドームへ。アウシュヴィッツ強制収容所ドレスデンの聖母教会と並ぶ、第2次世界大戦中に行われた非戦闘員虐殺の象徴的存在だ。原爆投下目標となったT字型の相生橋を渡って平和記念公園に入る。平和の鐘、原爆供養塔、韓国人原爆犠牲者慰霊碑と順番に見て回った後、広島平和記念資料館に行く。娘たちを西館に連れて行くのは、ちょっとためらわれたが、二人とも数々の悲惨な展示品を食い入るように見ていた。特に、昨晩、広島平和記念資料館のホームページで読み聞かせた佐々木禎子さんに関連する展示に感銘を受けたようだった。資料館を出て、原爆死没者慰霊碑、平和の灯と回り、最後に原爆の子の像を見た。改めて、原爆被災の酷さと、それを招来した米国の戦争犯罪責任の重さを思う。原爆をわが国に投下したという一事だけで、米国人を許すことはできない。今の米国人に罪はないかもしれないが、当時の広島・長崎市民にも罪はなかった。
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文字通り奇跡のような復興を遂げた広島を後にする。広島駅前で家族を下ろし、レンタカーを返しに行く。新幹線ホームで合流し、16:40発のぞみ62号に乗車。岡山まで40分あまりの短い乗車だ。岡山で17:34発・快速マリンライナー49号に乗り換える。児島を過ぎると瀬戸大橋で、いきなり海の上に出る。眼下は海面だ。下津井瀬戸大橋、櫃石島橋、岩黒島橋、与島橋、北備讃瀬戸大橋、南備讃瀬戸大橋と次々と渡り、昔は宇高連絡線で1時間かかったところをわずか10分で四国に上陸してしまう。34年ぶりの四国である。18:28に高松駅に到着し、駅前の全日空ホテルクレメント高松に投宿する。部屋の窓からは、玉藻公園の向こうに懐かしい屋島が台形に広がっている。

今日は、高松港の花火大会とかで、外はたいへんな人出だ。館内のレストランも全部予約で塞がっていたので、両親の部屋にルームサービスを取り、みんなで花火を眺めながら夕食を取ることにした。