戦艦「三笠」

いったん自宅に戻って着替えてから、夢の島第五福竜丸を見学に、車で外出する。京浜川崎ICから第三京浜に乗り、三ツ沢線・横羽線経由で高速湾岸線に向かう。
「パパ、東京に行くのに、何で横浜を走っているの。」
「首都高は、3号線も4号線も上りが渋滞しているから、こっちの方が時間距離が短いんだよ。」
「横須賀方面って出てるよ。」
「うん、横須賀に行って『三笠』を見るっていう手もあるけど、それはまた別の機会にしようね。これからベイブリッジを渡るよ。って、うわ、間違えた。こっちは横須賀方面じゃん。しょうがないねえ。横須賀に行こうか。」
「わーい、こういうハプニング大好き。」(娘たちは大喜び。妻は事態の急展開に当惑気味。)
という経緯により、急遽、目的地を変更し、横須賀に戦艦「三笠」を見に行くことにした。何事も、柔軟な発想と機敏な対応が肝要である。

がらがらの高速湾岸線を当初の予定と正反対の方向に走り、釜利谷JCT横浜横須賀道路に乗る。少し交通量が増えたが、順調に走る。横須賀ICで本町山中道路に乗り換え、終点で国道16号に降りる。よこすか芸術劇場の前を通り過ぎると、間もなく三笠公園だった。こんなに近いとは思わなかった。公園の近くの駐車場に車を停める。

公園には、東郷平八郎元帥の銅像が建ち、その背景に戦艦「三笠」改め「記念艦みかさ」が巨体を横たえていた。観覧料(大人500円、小中学生無料)を払ってから、階段を登って後部甲板上に入艦する。全長121.9mなので、戦艦「大和」のちょうど半分くらいの大きさだ*1。後部甲板には、40口径30cm2連装主砲の2番砲塔が鎮座しているが、上部構造物のほとんどは1959〜61年の修復工事で復元されたレプリカだ。床も張り替えられているが、一部に建艦時の床が残っている。後檣に登ると、東京湾が広がっている。東京湾内で唯一の自然島である猿島の向こうには、対岸の新日鉄君津製鉄所が見える。

右舷のボートデッキを伝って、前部の艦橋に行く。露天指揮所に上がってみると、意外なほど小さい。日本海海戦で東郷元帥がZ旗を掲げて戦闘指揮中の姿を描いた有名な東城鉦太郎の「日本海海戦の図」(原画が艦内に展示してあった。)は、指揮所の前方数mの空中にカメラ座標を置き、手摺を透視処理していることになる。床には、東郷元帥、加藤参謀長、伊地知艦長、秋山参謀の立っていた場所が金属板で表示されており、それによると、東郷元帥は手摺から僅か1m余りほどのところに立っていたようだ。海戦時は、マントレットで保護されていたとは言え、最前列で文字通り陣頭指揮を執っていたことになる。

ラッタルを降りて前部甲板に出る。こちらには1番砲塔がある。錨鎖や巻上機もちゃんと復元されており、このあたりは、撮影用の「大和」のロケセットとはだいぶ違う。左舷のアンカーベッドには巨大な主錨が横たえられていた。

続いて、艦内に入る。舷側には、副砲室がずらっと並んでおり(片側7門)、15cm砲のレプリカが設置されている。中央部は展示室になっており、「三笠」や日本海海戦にちなむ資料が展示されていた。中でも日本海海戦の経緯を模型と電光表示で説明するジオラマは、なかなかの迫力であった。これだけの一方的勝利を収めたとなると、金科玉条の戦訓となり、以降の帝国海軍の戦略が艦隊決戦主義・大艦巨砲主義に傾斜していったのも首肯できる。

とりあえず下艦して、近くの喫茶店で遅い昼食にする。私と長女は横須賀名物の「海軍さんのカレー」にする。昔懐かしい味がする。

食後、三笠公園に戻り、艦首まで行ってみた。艦首には、菊の御紋章が金色に輝いている。手摺や背景のマンションが邪魔になり、きれいな全景写真が撮れないのが残念だ。売店で「記念艦みかさ」のパンフレットと「東郷ビール」*2を買う。時計の針が16時を回ったので、帰途につく。帝国海軍の戦艦で現存するのは、この「三笠」だけであるし*3、太平洋戦争に従事した大型水上艦も、特務艦「宗谷」、病院船「氷川丸」くらいしか現存していないはずなので、貴重な経験であった。

往路を引き返す。横横道路を北上するつもりだったが、「保土ヶ谷バイパス渋滞中」の表示があったので、釜利谷JCTで高速湾岸線に外れる。横羽線・三ツ沢線・第三京浜とも渋滞はなく、正解だった。京浜川崎JCTで降りる。

高津駅の付近で、交通事故を目撃した。フォレスターがワンボックス車に激しく追突したらしく、道路の中央で反転していた。前部は完全に圧壊していた。乗員はかなりの怪我を負ったと思われるが、すでに救出された後だったようだ。これほど激しい事故の跡を見たのは初めてだ。

*1:基準排水量は15,140t。65,000tの「大和」の4分の1以下だ。

*2:売店でもらった「東郷ビールの由来」という紙片によると、フィンランド・ビューニッキ社の輸入ビール。フィンランドは、日本の日露戦争勝利に触発されて、1917年にロシアからの独立を果たした。「東洋の英雄『アドミラルトーゴー』は現在でもフィンランドの小・中学校の教科書で紹介されておりフィンランド人の心に深く刻まれて」いるのだそうだ。

*3:1905年5月27・28日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を壊滅させるという華々しい戦果を挙げた後の「三笠」の運命は悲惨である。1905年9月11日に佐世保港内で火薬庫の自然発火により爆沈。日本海海戦では戦死者僅か8名のところ、この事故で339名もの殉職者を出す。翌1906年8月に引き揚げられ、1908年4月に戦列に復帰したものの、1921年9月には一等海防艦に格下げされ、沿海州方面を哨戒中、座礁。ワシントン軍縮条約の結果、廃艦決定。1923年9月1日、横須賀港に係留中、関東大震災による波で岸壁に激突して浸水。同9月20日に帝国軍艦籍から除籍されている。本来ならスクラップになるところ、1925年4月に記念艦として保存することが閣議決定され、辛くも生き永らえることになった。しかし、受難は続き、太平洋戦争後、米軍が接収して兵装を撤去してしまい、あとは荒廃に任せるままだった。1959年10月にようやく復元工事が始まり、1961年5月にようやく今の姿になったという。